季節のお菓子

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 二月

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光琳梅 下萌(したもえ)

 二月を衣更着(きさらぎ・如月)という。梅見月の異名もある。梅を観る人の、思いを懸ける深さには並々ならぬものがある。
 余寒いまだ去りやらぬとはいえ、そこはかとなく春のきざしを梅は先ず感じるのであろう。老幹から若枝は氷雪に挺して、横に斜に張って、清淡な花の香りは、馥郁として芳しい。

       梅有喜色
   あさ日かげ霞ににほふかた枝より
     まゆひらきたるうめのはつ花   千蔭

 白梅には珠光禅師が雪中の梅の詩に「数枝開」とあったのを「一枚開」と改めた逸話を思い出し、引き締まったすがすがしさを覚える。
 紅梅には唯然坊の「梅の花赤いは赤いは赤い花」の句に一緒に小躍りしたくなる。
 この手ひねりの菓子は、煉薯蕷製で尾形光琳の図を倣ってこしらえた。伊勢薯の風味を生かして、淡白な「上り餡」の小豆の味と合せている.
 昔からの本紅に染めて、光琳の酒脱な中にも豊麗な筆致、また乾山の渋い禅味のある簡潔な陶画を模しても面白い。食べ物なので濃い色はさけて、今は安全なこのような色合いにしている。
 酒井抱一の精麗酒脱な画趣が出ないものかと、銀彩釉の萬古焼青海皿に盛ってみた。
 
薯蕷の白さそのまま白梅にして、器を遠州好朱塗の透し重とか、青磁、南鐐青海盆、伊賀焼などにしても、それぞれ違った趣が出て、楽しいと思う。
 伊賀といえば芭蕉の故郷、

  春もややけしきととのふ月と梅    芭蕉

 三重県名張市近く奈良県の「月が瀬梅林」が有名である。
 鈴鹿市の神戸(かんべ)の魚半楼の盆梅は樹齢二百年、百五十年の名木が数多く、この地方ではよく知られている。

 山里の春はまだ浅く、それでも残雪の下からそっとのぞく小さな草の緑を目にしたとき、うれしさを人にも知らせて、ともに茶をのみ、語りたい心がそぞろに動く。菓子銘を「雪間草」としてもよい。
 薯蕷饅頭は上菓子屋の技能のバロメーターとされている。伊勢薯の腰のある粘りを生かして、上用粉(米の粉のはたらき粉)を選び、砂糖とともに分量を控え目にして、薯勝ちの生地は餡を包むのに年期がいる。しかし艶と力があり、蒸し直しても香りと風味を失わない。少しのぞかせている餡は、白小豆の粒あんを草色に染めて、包み残して茶巾絞りにしてある。
 菓子屋は、饅頭屋ともいわれている。饅頭渡来の流れに二種類ある。博多饅頭(虎屋)の承天禅寺の名僧聖一国師(後に京都の東福寺開山)が中国の儒者で貿易官として駐在していた謝国明の便宜を得て中国に渡り、帰朝して、博多の栗波吉衛門に饅頭の製法を伝授されたものと、奈良饅頭(塩瀬)の伝説がある。
 「梅妻鶴子」ということわざがあるが、人物の画にもよくあるので知られる宋の林和靖は、西湖の孤山に住み、詩画・書もよくした。彼は梅を植えて、鶴を飼っていたという。
 その末裔浄因が京都建仁寺二世の龍山禅師(徳見)の弟子となって、禅師に従ってはるばる日本へ渡った。奈良に住んで妻を娶り、饅頭を製した。浄因は慕っていた大照国師(龍山徳見上人)の入寂に、無常の思と望郷の念にかられて、妻子を残して中国に帰ってしまった。その子の一人が出家して建仁寺の両足院を継いだ。
 後年、浄因の五世に当たる紹伴が三河の国塩瀬村に住んでいたが、京に出て、烏丸で塩瀬という屋号で饅頭屋を始めたという。今も饅頭屋町という町名が残っているそうである。
 紹伴の子、宗味が千利休と親交があり、縁戚にもなっていて、今の饅頭(酒素饅頭)が生まれ、名高くなった。宗味は余技として帯地や茶の帛紗の織物を考案し、それが「塩瀬織」といわれて今日に至っている。

       古歌
   いかにせんこしきに蒸せる饅頭の
           思ひふくれて人の恋しき
 

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