季節のお菓子

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 七月

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鬼灯(ほおずき)

浮草

 梅雨はつゆで風情もあるが、七月九日・十日の浅草の観音様の「鬼灯市」で夏が来る。千日詣、四万六千の縁日に立つ市で、昔は玉蜀黍(とうもろこし)を売っていたが、ある年不作の時に、竹串に挟んだ三角形の雷除の護符がよく売れて、浴衣がけの丸髷に挿した仇な姿は夏の夜の風物詩であった。
 虫封じの呪(まじない)に丹波鬼灯や千成鬼灯が売られるようになったのは明治になってからのようである。この頃の賑いはテレビニュースで夏を知らせてくれる。
 酸漿(ほおずき)の朱の色と、青白磁の皿で梅雨明けの季節感を盛った。
 白小豆の漉餡(こしあん)を半葛製(米のはたき粉、浮粉、葛、餅粉に砂糖を調合)で包み、茶巾で絞ったまま、指先で形を作り、蒸し上げたもの。光沢と葛の香り、歯にくっつかない加減がしてある。
 盂蘭盆のお茶にもいかがかと思う。
 昭和二十一年七月、戦災で丸焼けの桑名へ復員した。揖斐川畔の借家で父と二人で”たけのこ生活”をした。「なにもかも無うしたが、もうこれ以上なくするものはない。菓子が作れるようになったら、箸一つ皿一枚と、これからは増える一方や」とつぶやくように言った父、何も出来ない私が、あせって愚痴をこぼすと「雀篭に鶯を入れたのは見よいが、鶯篭に雀が入っているのは見にくいものや」とけわしい顔をした。
 祖父の代から暖簾分けした店の方々の集まりを「華々会」といって、父が和歌、俳句、喜寿に因む引菓子等出題して、菩提寺の書院で内輪だけの菓子の品評会があった。今でも職の話、店にいた頃の話に花が咲く。祖父、父と先亡会員の施餓鬼法要をして無事を喜んでいる。

   魂棚(たまだな)の 奥なつかしや 親の顔    去来

 桑名は伊勢の国の北端、美濃、尾張の国境に接して、木曽、長良、揖斐の三大川の河口にあり、昭和九年国道一号線の伊勢大橋が架かるまでは、向かいの長島から印半天の男衆が舟で迎えて、葦の州を分けた水路から水門を通って、舟入りの席の茶事といった風情があった。

   行々子(ぎょうぎょうし) 啼くや七里の渡し舟  甘泉

(行々子は「よしきりののこと。美濃派獅子門道統二十世千葉兎月翁の大川の葦の俳画に賛が右の句である)

 遠くは、白鳳元年壬申の乱(六七二年)の大海人皇子(おおあまのおうじ=後の天武天皇)とお后(後の持統天皇)が桑名にお泊りになり、皇子は美濃から近江へ進まれた。勝ち戦の後に帰途にも桑名へ寄られ、その間、お后は桑名に滞在された。

   とききぬの こひみだれつつうきくさの
     うきてもわれは こひわたるかも
   (解衣恋乱乍浮草浮吾恋渡鴨)

 花乃舎は曽祖父の代までは、桑名藩の御船年寄席を仰せ付かり、五十集屋(いさばや=塩物問屋)を手広く商い、米も江戸や紀州へ出していたが、会津、桑名と長州、薩摩の戊辰の役(鳥羽伏見の戦)で明治維新となり、米相場の手違いやら代々お茶が好きということもあって、祖父とともに京都から次々と菓子職人を入れて、菓子屋を創めた。親交のあった寺町の輪崇寺の画僧帆山唯念(大和絵、土佐派で京都御所の襖絵の修復に当たる)と同じ花乃舎の号を掲げた。

   浮草や 今日はあちらの 岸に咲く
     身をつくしてや 恋ひわたるかも

 上の句は伊勢山田の社守、中川乙由の句で蕉門に入り、麦林舎の号もある。下の句は小倉山百人一首の皇嘉門院別当(藤原忠通の女)の歌の下の句を入れたものである。
 幣舗に戦前頂戴した其心庵宗明宗匠の「雲自閑」三字横物を大切にしている。
 水に映る白雲、浮草の緑を葛羊羹にして、清涼にして、閑寂の味わいを丹波焼の片身替りの小平鉢に盛ってみた。
 葛羊羹のことを一名、吉野羹と言う。大和の吉野葛が有名だが、品質がよいので私共は三重県側の多気郡や伊賀の葛を使っている。
 よく煮つめた金玉糖(きんぎょくとう)に、葛を溶いて、徐々に流したもので、浮草色に染めた白小豆の棹者を細長く切って、手で大小に千切って入れてある。
 冷やしてお出しになり、器もご趣向あって、菓子銘は、その時のお茶事のお道具立てによって、ご亭主がお付けになるのが、よろしいかとも思う。

   浮草の ゆれて小鮒の 腹白し   花笑子

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