季節のお菓子

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 十二月

磯千鳥

佐野の雪

   冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす

 芭蕉が貞享元年(1684年)野ざらし紀行の旅の折、大垣の木因に伴われ、桑名御坊本統寺の住職大谷琢恵(俳号古益)を訪ねて一夜を明かしたことがあった。その時詠んだのがこの句である。古来難解の句として有名である。木因もこの時「釜たぎる夜半や折々浦千鳥」という句を残している。
 この頃桑名藩の家老のなかで牡丹の栽培が流行し、いろいろと名品を作ったということであるから、本統寺の庭にも藁ずとで囲われた冬牡丹があり、浜辺から寺町堀辺へは千鳥が訪れて、チチと啼いていたであろう。
 冬牡丹と千鳥は実、雪と郭公(ほととぎす)は嘘、郭公の啼く頃の白牡丹の花を、雪の色とみて、ひねったのかも知れない。
 句の講釈はさておき、菓子は「煉薯蕷製(ねりじょようせい)」である。伊勢薯を蒸して裏漉(うらごし)にかけ、極上の白双糖(はくざらとう)を加える。蒸気熱で煉りながら、つなぎに白小豆漉餡を入れて固く煉り、もう一度裏漉した生地である。上り餡を包んで「ちどり」の形に手でひねり、箸の先で小さく目を入れる。尾羽根の筆勢は包丁の柄をもってした。尾形光琳画譜の一風酒脱なおかしみがお手本である。伊勢薯の香りと風味がそのまま味わえる。
 筆者の家に「むら千鳥」という、気のきいた和綴の冊子がある。これは桑名の富豪諸戸家二代精太氏から頂いたものである。白河楽翁公に私淑された青渕渋沢栄一翁が、公の自叙伝「宇下人言(うげのひとこと)」巻首の一節(<書名の四字は定信(さだのぶ)を分解したもの>)と幼時の傑作である自教鑑、花月草紙中の寓意的小品文三篇を書写印行された。諸戸氏が乞うて復刻され、配られたのであった。

   はるかなる絵島にかよふむら千鳥
     声は心にまかせてぞきく

という公の歌に因って、名づけられている。

 

 

 「鉢の木」の物語は、昭和の初めまで、小学校の教科書にのっていた。歌謡「鉢木」には「行方(ゆくへ)さだめぬ道なれば、来(こ)し方も何処(いずく)ならまし」北条五代執権時頼は剃髪して後、諸国の守護地頭等の非道を行うを憂い、視察のため鎌倉を忍び出て三年行脚したという。
 「信濃なる 浅間の嶽(だけ)に立つ煙 遠近人(おちこちびと)の袖寒く 吹くや嵐の大井山 捨つる身になき友の里 今ぞ浮世を離れ坂 墨の衣の碓氷(うすい)川下す筏の板鼻や 佐野の渡(わたり)に着きにけり」
 道行の名文である。佐野源左衛門尉常世(じょうつねよ)は「あゝ振ったる雪かな 如何に世にある人の面白う候ふらん それ雪は鵝毛に似て飛んで散乱し 人は鶴氅(かくしょう・つるのけごろも)を着て立って徘徊すと云えり されば今ふる雪も もと見し雪にかはらねども・・・」と雪の白さに廉潔の武士の面影と、あばら家に僧を泊めて粟飯をふるまい、秘蔵の梅桜松の鉢の木を火に焚いてもてなした人情の厚さ、落ちぶれたりとはいえ、具足、長刀、痩せ馬を手放さず、鎌倉の勢揃えに馳せ参じた気骨は「すわ鎌倉」の言葉とともに、戦前の年代にはいまだに脳裏に残っている。
 菓子は「道明寺製」である。糯米(もちごめ)の糒(ほしい)を道明寺と称しているのは、河内の藤井寺市の御門跡寺院として有名な道明寺で昔から売られていたからである。水1カップ半に白双糖100グラム入れて沸騰させ、道明寺1カップ入れて、かき混ぜてもどし、よくうまして置く。固く煉った上がり餡玉をこれで包んで、薯蕷生地を垂らして蒸し上げたものである。
 黄色を粟飯に、薯蕷(いも)を雪に見立て、刳鉢(くりはち)に盛ってみた。懐紙にとってくっつかない配慮に氷餅をまぶすか、または熊笹の葉か椿の葉を敷いてもおもしろいと思う。
 器の鉄鉢(てっぱつ・応量器)形に師走の托鉢僧の素足に草鞋姿が思い浮かぶ。商(あきない)にはならぬが、もし、糯粟(もちあわ)が手に入ったら、毎日水を替えて十日程浸し、よく蒸して、固い上り餡を包んだ粟餅そのままを饅頭蒸しで蒸し直し、取皿を添えてすすめるのも、年忘れの釜に一興かとも思う。

   大晦日さだめなき世のさだめかな  西鶴

   

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